常時英心:言葉の森から 1.0

約10年間,はてなダイアリーで英語表現の落穂拾いを行ってきました。現在はAmeba Blogに2.0を開設し,継続中です。こちらはしばらくアーカイブとして維持します。

コミュニケーションとは生きること

蔵出しです(いつまで続くことやら)。『育友』No. 115, p. 46. 専修大学育友会からです。(by UG)

  • -

1コミュニケーション能力=会話力?
 今、企業が学生に求めるものに「コミュニケーション能力」があります。よく耳にする言葉ですが、これを「=会話力」と単純に結んでいる人が多いようです。果たしてそうでしょうか。今回は英語コミュニケーション教育を専門にする立場から、この言葉をつかまえてみます。

2コミュニケーション能力の本質
 まずは大本の「コミュニケーション」をながめましょう。この言葉はマス・コミュニケーション、親子間のコミュニケーション、学校や職場でのコミュニケーションといったように使われますが、その定義は各分野で微妙に異なります。一律の定義は見出せないものの、コミュニケーション学という分野ではこれを2つの視点でとらえるのが一般的です。最初の視点はコミュニケーションを次のように3レベルに区分するものです。

 1)個人内(自己内)コミュニケーション
 2)対人コミュニケーション
 3)公的コミュニケーション

 個人内から公的にいたる事例を思い浮かべますと、「夢」を見るのも、今夜のおかずを考えるのも個人内コミュニケーション。対人では会話もそうですが、クルマの運転やスポーツ、飲み会に誘うのもそうしたコミュニケーション。そして、教室での講義や講演は公的の典型です。
 もうひとつの視点は:

1)言語コミュニケーション
2)非言語コミュニケーション

とコミュニケーションを二分することです。言語は確かに気持ちを伝える大切なものですが、面白いことに非言語の方が言語より多くのメッセージを伝えることがわかっています。その人が真実を言っているのかどうか、私たちはジェスチャーや視線、顔の表情、声の調子などを通して推測することができます。人と人の距離間は二人の親密度を物語ります。そして臭いすら、何かを伝えるのです。
 以上、大まかですが、それでも「=会話力」といったとらえ方が余りにも狭義であることがわかります。私たちは寝ている時にも、起きている時にもコミュニケーションを行っているのです。それを遂行できる力——コミュニケーション能力——はヒトとしての「生きる力」に近いことが窺えます。 

3コミュニケーション能力の本質
 このようにコミュニケーション能力は私たちのDNAに組み込まれているはずです。にもかかわらず、昨今、それが強調されるようになった遠因には社会の急激な変化があげられます。中でも「ケータイ世代」の中には、携帯やインターネットなどのデジタル・コミュニケーションには長けているが、その分、じっくりと本を読み、物を考えることなどは苦手な者がいるようです。メールでの指先の動きとは裏腹に、対人の付き合い方を不得手にする若者も増えています。公的なレベルではせっかくのアイデアもうまく言葉にできないし、「KY」という言葉が象徴するように、相手の心を察知する力の衰退も顕著です。つまりツールの発達とは裏腹に、本来備わっているはずの能力が逆に減退しているのではないかとさえ思うのです。企業はその辺りを敏感に感じとっているのかもしれません。
 ヒトが本来有する能力を衰退させることなく、新しいコミュニケーション様式にも対応できる——生きる力を持つ学生の育成。We communicate to live and live to communicate.この言葉の重みがわかる人材の育成、それは私たち大学人の新しい課題だと考えています。