常時英心:言葉の森から 1.0

約10年間,はてなダイアリーで英語表現の落穂拾いを行ってきました。現在はAmeba Blogに2.0を開設し,継続中です。こちらはしばらくアーカイブとして維持します。

Just a click away from...

 今更ながら,便利な世の中である。店頭でぶらぶらしなくても買い物はできる。切手を貼って,ポストまで行かずとも,メールは迅速に届く。GPSナビゲーションは地図とのにらめっこから解放してくれた。
 こうした“Just-a-click-away”の世の中は,本来ならわれわれが時間と労力をかけなければならないプロセスを見事にはしょってくれる。しかし,便利さの反面,どこかに,何かを置き忘れたような気がするのは私だけであろうか。
 Clickの利便性はわれわれの生業である英語教育でも浸透しつつある。電子辞書を例にとろう。生徒は「紙の辞書は重たい」,「函から出すのが面倒!」,「引くのに時間がかかる」などなど,好き勝手なことをのたまう。そう考えるのは何も生徒だけではないようだ。教員研修や講習会などで先生方が使用されるのは,もっぱら電子辞書。紙の辞書をお持ちの方に出会うと,思わずその頬にすりすりしたくなる程である。
 えらく旗色の悪い紙の辞書ではあるが,それで思い出すのは高校教員時代に出会ったY先生のことである。当時50代前半の先生の英語力というか言語能力は尋常ではなかった。現在の『リーダーズ英和』を上回る語彙力をお持ちで,TimeThe New Yorkerあたりは驚異の速さで読まれる。これは,お若い頃に研究社の『英米文学叢書』の全巻を読みあさった成果と聞いた。読まれるものは何も英語とは限らず,先生は数十カ国語に精通されていた。MEF(Monbusho English Fellow:当時のALT)の英文を添削されるお姿を目の当たりにしたときは,口あんぐりの状態だったが,これもかつて『英文毎日』(現在廃刊)の「英語短編小説賞」を受賞されたと聞いて,妙に納得するやら。
 「普通の先生」ではなかったY先生は紙の辞書をこよなく愛でる人であった。何かあると職員室の机の2番目の引き出しにあった辞書を取り出して,さっと引かれていた。こちらが面倒くさくて,うっちゃってしまうことばも,さっと引かれる。紙の辞書と対話されている姿はまさに神々しいという表現がぴったりであった。
 先生から学んだ(盗んだ?)のは,OEDCOD,PODなど,辞書の基本だけではない。例えば,辞書のマージン(天地のスペース)の使い方。先生の辞書にはマージンに,よくぞまあという感じで,採集した表現,誤記,未収録のことなどなど,実にたくさん記してあった。先生は「道草名人」でもあった。ひとつ引くと周りが気になる。ひとつのことばがまた別の連想を生み。次から次にページをめくり,気が付いたら本題のことを忘れている。そういう辞書の道草の大切さも,学ばさせていただいたと思う。昨今の電子辞書の目玉はご存知「ジャンプ」で,確かに便利ではあるが,先生の方のジャンプはもっと回り道を楽しむ,人間くさい手法だった。Y先生はかのごとく,学びのプロセスに身を浸しながら,このことばを押し倒し,自分のモノにして行かれたのである。
 誤解していただきたくない。何も電子辞書やマルチ・メディアが悪いといっているのではない。私自身も確かに,そういうものの恩恵に預かっている。しかし,この“Just-a-click-away”の世の中で考えなければならないのは,Y先生の辞書引きプロセスに存在していたものが失われつつあるということである。
 英語学習にかかわらず,およそすべての学習には「?→!」という学びのプロセスが必要である。特にこの「→」というプロセスにこそclick-awayの世の中が考えなければならないものがある。昔風の生徒の頭の中で自問自答される,「なぜなんだろうか」,「あれはこうではないか」,はたまた,「くそー,できないな」,「よし,じゃあ聞いてみよう」,「ああ,そうか!よしわかったぞ!」といった一連の思考と試行のプロセスこそが人を鍛えるのである。
     
 特に英語学習では,辞書をしわしわにしたり,声がつぶれるまで音読をしたり,手が痛くなるまで英文を書き殴ったり,CDがつぶれるまで英語を書き取るといった,当然あるべきプロセスが失われることがあってはならないと思う。
 認知心理学では,学習者に今あるものよりも,ちょっと高い水準のものを与え,それに学習者自らが体験し,思考し,発見することにより学習が進むという仮説がある。ところがここまで見たように,click-awayの世の中はこのプロセスを簡略化し,すぐに結果を示す。それは社会の進歩のための善意の効率化ではあるが,学校という場では,それが100%そうとは限らないことをわれわれは見極めておく必要がある。特に,われわれの生徒の多くが,物心ついたときから,clickの世界で育ち(自販機,ゲーム含む),プロセスがはしょられることを当たり前にとらえている学習者であることは忘れてはいけない。
 Gone with the windという作品は今も必ず世界で読まれ,上映されている。「ちみちみ,goneしたのは文明なんじゃよ」と,高校時代に教わった。ミッチェルがスカーレット・オハラというキャラクターに託して,ひとつの文明の終焉とその次の時代の到来を描いたように,clickすることにより,われわれは何から離れつつあるのか,次に来るものは何なのかを知る必要がある。そして両者の良いところを教育・学習面でいかに融合しうるかを見つめなければならない。それは端境期に生きるわれわれ教師の重い責務である。(by UG)
(cf.『がんばろう!イングリッシュ・ティーチャーズ:英語教師の自主研修』三省堂,『KE—WAVE』神奈川県英語部会会報,2006年12月, pp. 1-3.)