常時英心:言葉の森から 1.0

約10年間,はてなダイアリーで英語表現の落穂拾いを行ってきました。現在はAmeba Blogに2.0を開設し,継続中です。こちらはしばらくアーカイブとして維持します。

日本英文学会 感想

本日は、慶応義塾大学日吉キャンパスにて開催された、日本英文学会の関東大会の英語教育部門シンポジウムに参加して参りました。
日本英文学会の英語教育部門のシンポジウムの感想を述べさせていただきます。
シンポジウム「音読の功罪と英語教材としての文学作品」というテーマで行われました。発表される先生は3人でしたが、3人とも視点は違えど、着地されるところは同じようでした。
最初に司会の先生が、軽く音読についてのブレーンストーミングをされて、とにかく「音読」といっても、ひとえには言い尽くせない概念だというところから入り、本テーマに移って行きました。
パネリストとして最初に登壇されたUG先生は、英語教育史の観点、英語教育学的視座、音声学的視座、応用言語学的視座を合わせて、発表されていました。その発表で先生は、まず教育史学的な視座として、当時の日本では、英語という言語が入ってきたとき、英語教育は文字重視で、漢学のアプローチが応用されていたこと、その経験則的アプローチから言語アプローチから切り換えはしたものの、音読が不足していたこと、H.E. パーマーのアプローチ、フリーズのアプローチからあまり変化はなく、現在でも昔ながらのやり方がそのまま下ろされてきたことを挙げられました。続いて英語教育学的観点からは、ヨーロッパの英語教育との対比で、音読がこれだけ叫ばれている国は日本だけであること、ヨーロッパでは黙読優位であることを挙げられました。最後に音声学、応用言語学の観点から、そもそも音読がしっかりと成されていないのではないかという点を提示して発表を終えられました。
2番目のK先生は、大学においての英語の講義における音読の調査というものから音読を捕えておられました。調査された対象は、講義を受けている学生、その学生を指導していらっしゃる教授、講師陣の方々でした。それによると、教師によって、学習者によって、基準はバラバラであり、音読という活動はしていても、なかなか学習者1人1人を時間をかけて始動できないという欠点も浮かび上がってきたということでした。K先生は、最後に、先生が考える「音読」を「音声の重要性を示すための活動、その他の技能につなげていく活動」と示し、発表を終えました。
最後に登壇されたS先生は、教えて来られた経験則を基に、自分の英文テキストという観点から、「声に出して読みたい英文テキスト」というテーマで発表されました。S先生は、「音読の功罪」という、このシンポジウムのテーマの言葉に焦点を当てました。先生の意見ですと、「功罪」の「罪」の部分は無いということでした。第一に、「音読」には2つあり、「良い音読」と「悪い音読」があるということで、「悪い音読」に陥らなければ、マイナスの結果は帰ってこない、第二に、「良い音読」をして、発音、文法、教養が一気に身に着くということでした。先生は、何本か文学作品のテキストの抜粋を何点か用意し、「文学が分かるとこういうことに応用できる」などを単純明快に示しておられました。お話の中で先生は、「音読」には教師の役割が非常に大きいこと、つまり教師が音読を体得していなければならず、それを生徒、学生に伝えていかなければならないこと、教授法に逃げてはダメであること、音読ができて、それでなおかつ自分なりの英文を満足にかけて、それを学習者に提示できることが重要であることを示しました。
フロアからの質問に対して、UG先生が、「音声ができる人は全技能こなせる人である」ということを述べられたのが印象に残った次第です。先生は、長年の通訳者の経験から、それから6年にも及ぶ和文英訳の添削のご経験から、その結論に達したそうでした。
私は英語学習者の1人です。自分のできる限り、自分のできる限り、その方々に近づくべく、質のいい英文に触れ続けようと考えました。残り少ない大学生活の中で、少しでも多くの良質な英文に触れようと考えた次第です。(Kawada)