常時英心:言葉の森から 1.0

約10年間,はてなダイアリーで英語表現の落穂拾いを行ってきました。現在はAmeba Blogに2.0を開設し,継続中です。こちらはしばらくアーカイブとして維持します。

学会の感想

本日、拓殖大学で行われた日本英語教育史学会に参加して来ました。日本英語教育史学会に参加させて頂くのは三回目で、今回も英語の歴史について様々なことを学び、お話を傾聴することが出来ました。お話をしてくださった先生方、私たちに学びの場を与えてくださったUG先生、ありがとうございました。
 今回は、お二人の先生がご講演をされました。前半は、体操専修科と英語についてのお話でした。今でこそ、私は英文科に所属しているので、英文科なりの学習しかしておらず、もはや時間割も英語しかないような形になっていて、英語を専攻する私にとって体育とは必修で取らなければならない単位さえ修得していれば学校生活の中では、縁のないものとなっています。しかし、明治期では体育を専攻していた学生が、実力をつけるために実践的な練習をするだけではなく、英語を専攻している本科の学生と同じレベルに相当する程の英語を学んでいたそうです。体育を専攻していると、私の英語ばかりの時間割が全て体育になるようなもので、それに加えて英語を学ぶとなると、体力的に練習やハードなスケジュールをこなしているであろう学生にとって、とても辛いものがあったのではないかと思いました。実際、英語は国語などの他の教科に比べて時間も多く確保されていて、当時から英語が重視されていたということが分かりました。英語を専攻している立場にあり、それにプラスして特別何かを学んでいるわけではない私が、英語を学ぶのにやる気を持たずに取り組んだり、生半可な気持ちでいるのはとても甘いなと感じました。
 後半は、大正時代の教科書改訂に関するお話でした。大正時代から、教科書を改訂する際には様々な要素が加味されていたようです。内容に関するものや、一つ上の学年が既に使用してしまったものだから良くないという観点、教科書本来の形やサイズにまで項目が及び改訂するのも容易なことではなかったのだということが伺えました。時代の流れとともに、その理由も変わってきたりして、時代を反映しているのだなということが分かりました。加えて、当時の教科書数に驚きました。先生が教科書のリストをくださったのですが、そこには沢山の教科書の名前が記載されていて、一つの教科書に決めるのも相当な苦労があったのだろうなと思いました。
 今回も、英語の歴史は深いなと感じました。明治期や大正時代の英語があるからこそ、今の英語が存在すると思うと、英語を学ぶことは凄いことなのだと感じました。(Starlight)