常時英心:言葉の森から 1.0

約10年間,はてなダイアリーで英語表現の落穂拾いを行ってきました。現在はAmeba Blogに2.0を開設し,継続中です。こちらはしばらくアーカイブとして維持します。

西欧社会の基本原理

田邉祐司先生

お借りした本(金田一秀穂『15歳の寺子屋 15歳の日本語上達法』講談社)をお返しした際に「何か感じたことはないか」という問いに短く答えましたが、もう少し語らせて頂きたくメールした次第です。

本書にもありましたが、我々人間は、ことばを知らなければ考えることができません。
そうであると、言語力が思考力につながっていきます。行動するには考えなければならず、考えるにはことばを知っていなければならない、ということも本書にあった通りです。考えて行動する生き物である我々は、ことばを知らなければ生きていくことができません。

ことばが、生きていくのに不可欠な道具としてあることに関して、重要な裏付けがあることを思い出しました。「初めに、ことばがあった」という聖書の記述です。この「ことば」という意味は、ギリシャ語で「ロゴス」(logos)と訳されており、つまり「原理」である、ということを聞いたことがあります。本書にもことばの歴史が少し書いてありました。はじめは動物の鳴き声に似たことばがあったと。

しかし、2000年以上も前に書かれた歴史書でもある聖書の記述から、人類が誕生する前からことばはあり、原理そのものであることから、ことばは生きる定めとして我々人間に贈られたものだと思いました。

だから我々は、食物だけではなく、ことばをも蓄えておかなくては生きていくことができないのだと思いました。ことばを食べるために本をたくさん読むことは、すなわち究極的には、我々が動物ではなく「人間として」生きるために本を読むのだというところにいきつきました。

目や耳が不自由な人も、点字や手話などでことばを学びます。ヘレンケラーも、ついにはことばを学びました。それまでは本能で生きていた彼女が、人間となって喜びを感じた瞬間だったといえるでしょう。ゆえに、ことばは生きるためのツールであると思いました。(by なろはす)