常時英心:言葉の森から 1.0

約10年間,はてなダイアリーで英語表現の落穂拾いを行ってきました。現在はAmeba Blogに2.0を開設し,継続中です。こちらはしばらくアーカイブとして維持します。

「英文法の離見」

またまた,昔のエッセイで埋め草をいたします。「英語学習のための読書ガイド」(第4回)として寄稿したものです。道標になることを願って...。(by UG)

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(『ニュース専修』2004年8月号より)

『英文法解説改訂三版』(江川泰一郎,金子書房,1991年,1,785円)

 第1回目では,スポーツの「素振り」に通じる音読の本を紹介しました。音読と「練習試合」(英語の使用)を繰り返すと,やがて自分の‘あら’が見えてきます。大学1年当時の小生のあらは文法でした。
 英検1級の先輩に相談すると,「じゃあ,これやれよ。」といいながら,紹介していただいたの黄色のカバーの本書でした(当時は二版?)。やたら分厚く,文字ばかりで,とっつきにくいというのが第一印象。「全体を通読し,苦手事項から。すべてに精通する必要なし。小説を読むような感じで。」ということばを信じ,早速とりかかりました,
 すると,不思議なことに本書にグイグイと引き込まれて行くではありませんか。なぜ「はまった」のかは記憶の彼方。例文の和訳がこなれていたからでしょうか(例:There was a large audience in the theatre.「劇場は大入りだった。」),それとも無生物主語の解説がよかったのか。 
 でも,今はっきりいえるのは,本書には「英語を使用する人」の視点があるということ。文法学習上の「机上知」を「実践知」へと転化できるような暖かい‘まなざし’があるのです。それは筆者の米国での苦闘とは無縁ではないでしょう。
 この本のお陰もあって,1年も経つと,英語を使うときの自分の後ろにもう一人の自分(?)を感じるようになりました。その自分は「よしよし」「あっ,そこは違う」,と語ってくれるのです。
 ずっと後になってから,能の世阿弥による『風姿花伝』に「離見の見」(演じる自分を離れたところから見る自分)ということばに出会い,思わず膝をたたきました。以降,私は尊敬の念を込め,本書を「英文法離見」と密かに呼ばせてもらっているのです。