常時英心:言葉の森から 1.0

約10年間,はてなダイアリーで英語表現の落穂拾いを行ってきました。現在はAmeba Blogに2.0を開設し,継続中です。こちらはしばらくアーカイブとして維持します。

I was born...

今日はこんな日でした。
           
                       (新百合ヶ丘 リリエンベルグのマロンケーキ)
I was born...はやはり,受け身形。自分で出てきたわけではありません。生まされて,生を受けたのです。世の中に何かお返しをしようと生きてきましたが,まだまだ道半ばです。ちなみにbornの原形はbear。いろいろな意味のある単語で,それ自体とても意味のあることです。そんな今日,午前中,少しだけ時間ができたので文京区茗荷谷拓殖大学であったELEC同友会研究大会に顔を出してきました。山口の松井さんや福岡の永末先生のお顔を見て,嬉しくなりました。お昼にはSugiuchiくんがお祝いを兼ねて,松屋牛飯定食を食べてくれました。もちろん,わたしがおごりました。(UG)


I was born

確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

 或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと、青い夕靄(ゆうもや)の奥から浮き出るように、白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。

 女は身重らしかった。父に気兼ねしながらも僕は女の腹から目を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 女はゆき過ぎた。 

 少年の思いは突飛しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと 諒解した。僕は興奮して父に話しかけた
 やっぱり I was born なんだね
父は怪訝(けげん)そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
 I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意思ではないんだね--
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼かった。僕にとってはこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

 父は無言で暫く歩いた後、思いがけない話をした。
 蜻蛉(かげろう)と言う虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね
 僕は父を見た。父は続けた。
 友人にその話をしたら 或日 これが蜻蛉(かげろう)の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口はまったく退化していて食物を摂(と)るに適しない。胃の腑(ふ)を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりとした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげてるように見えるのだ。淋しい 光の粒々だったね。私が友人の方を振り向いて <卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ、お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは。

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつの痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものだった。
ほっそりとした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体。(吉野 弘)