刺し違える
あの表現がまた出てきた。政局は次の段階に入ったが,鳩山辞職のときになんども使われた「刺し違える」である。最近では,2002年田中真紀子元外相の更迭騒ぎのときにメディアで頻出したが,今度は鳩山氏と小澤氏との辞任劇場で登場した。
この言葉のニュアンスは訳せない。通訳者も翻訳者もお手上げである。国語辞典によると,「刺し違える お互いに刀で胸などを刺し合う。stab each other」『日本語大辞典』(講談社)とあるが,これはサムライ,近松・井原の世界,そして任侠の世界の言葉である。田中氏更迭を伝える「天声人語」には次のような一節があった。
こんどの更迭劇では「刺し違え」という古めかしい言葉もささやかれている。そうした言葉を聞かされると、一昔前の政治に逆戻りしたような気がする。国民へのわかりやすさを売り物にしてきた小泉政治が、いっぺんに旧来型の政治に戻ったような気分だ。
Regarding the dramatic dismissal of the foreign minister and her deputy, some people suggest the two actually “stabbed each other” as if acting out an old-period drama. Hearing such an expression causes me to feel that Japanese politics has reverted to its old style of a decade ago. For all its much-touted “crisp and clear “ posture, the Koizumi administration appears to have caused politics to regress in a single sweep.
「天声人語」田中外相更迭劇 1/31/02
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ということで,われわれは「手」が打ちようもない難解語を前にしたときには「逃げ」を打つ。「道連れ」はそのひとつ(「道を一緒に行くこと fellow traveler 自分の行いに引き入れること take someone with one」)。このように若干マイルドで,ヨコにしてもわかるような次元に落として使う。あと同じ意味でaccompanyとしたところもある。しかし,いずれも「差し違える」という言葉が日本文化の中で果たしてきた役割を伝えるものではない。難しい。(UG)
(「東京新聞」06/03/10)